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*参照 キュリー夫人の伝記作者の死 http://terutell.at.webry.info/200710/article_12.html 前に、「キュリー夫人の伝記作者の死」というエントリーを載せたが、そのときの伝記作者というのは、キュリー夫人の娘で、100歳を越えて亡くなったという新聞記事の翻訳を載せたのだった。 今度は、著者がそのキュリー夫人の娘E・ラブイスさんに会って話を聞きつつ、ラブイスさんが書かなかったことまで含まれている、『マリー・キュリー〜〜フラスコの中の闇と光』を読んだ。 『マリー・キュリー グレート・ディスカバリーズ フラスコの中の闇と光』B.ゴールドスミス著 小川 真理子監修 竹内 喜訳 http://www.bk1.jp/product/02790832 マリー=キュリーという人の生涯そのものも興味深いが、彼女の生きた時代背景もまた、興味深い。次の三つの点で。 一、女性に対する差別。 差別というか、何というか、それこそ、「宮廷女官チャングムの誓い〜大長今〜」に出て来た、16世紀の朝鮮王朝と見まごうような話がある。 ポーランドで生まれ育ったマリア=スクウォドフスカ、後のマリー=キュリーは、1890年代のパリに行き、姉のブロニスワバの家に寄宿するが、そのブロニスワバが夫と経営している診療所の話。 ブロニスワバの夫カジミェシェ・ドウスキが出迎え、労働者居住区であるアルマーニュ通りの自分たちの新居に案内してくれた。住まいは診療室を兼ねていた。カジミェシェは男女両方の患者を診察し、ブロニスワバは女性患者だけを診ていた。当時、女性の診療は着衣のまま行われたため、診断が難しかったが、医師が女性である場合には規制がゆるやかだった。 こういうのはまあ、ナイーブな区別とでも言うべきか。 だが、もっとはっきりとした、女性に対する差別も、厳然としてあった。 たとえば、1900年代のベルリンのリーゼ=マイトナーの話。 マリーに断わられた(中略)マイトナーは、原子の量子論を生むきっかけを作った有名な理論物理学者マックス・プランクの申し出を受け、ベルリン大学化学研究所で働くことにした。そこでは女性は地下へ追いやられ、研究室や講義室のある階上へ上がることも許されず、トイレの使用まで禁止された。マイトナーは化学や物理の講義が聞きたくて、よくこっそり上の階に上がって座席の下に隠れていた。かねてから彼女に一目置いていたラザフォードは、研究協力者を捜していたかつての門下生オットー・ハーンに紹介した。ハーンはマイトナーを雇った。一九〇八年に女性の大学入学が認められ、リーゼはようやく階上へ行くことを許されて、トイレを借りに八ブロック離れたホテルへ行かなくてもよくなった。マイトナーは一〇年もたたないうちに新設のカイザー・ヴィルヘルム研究所の部門責任者になり、ハーンは放射能に関する彼女の知識に頼るようになった。 この時代の科学者というものは、まだあまり特許でもうけるなどという人もおらず、清貧を余儀なくされていたようで、ポーランドのマリア=スクウォドフスカの一家も、後に夫となるピエール=キュリーの一家も、富を得るよりも学問に精進すること、人格を磨くことを誇りとしていたようだ。これもまた、「ホジュン」のようじゃないか。 マリア=スクウォドフスカの場合、性差別以前に、ポーランドの歴史や言語を学ぶことが学校では制限されており、ロシアの歴史や言語を学ぶことが強制されていたという、他国に支配されている国の国民としての差別があり、家庭ではむしろ、女でも男でも平等に科学を学ぶことが奨励されていた。両親とも、学者で教育者だった。だが、母親は結核に罹り、マリアは幼い時、感染を防ぐために、母に抱いて貰えないという暮らしが続いた。後に、マリーの娘で伝記を書くことになるエーブも、幼い時、同様の経験をした。それは結核の感染を防ぐためではなく、夫のピエール=キュリーの死後、母マリーが、生涯に亘って苦しむことになる悲哀と憂鬱のせいだったらしい。 マリー=キュリーとなってから、科学の分野で挙げた業績はよく知られているが、ノーベル賞を受賞するのにも、学術会議の会員になるのにも、女性ゆえの差別はつきまとっていた。特に、夫の死後、単独でノーベル賞を受賞する時には、受賞が決定された直後に、妻子のある男性との恋愛関係が報道され、ノーベル賞の委員会から、受賞を辞退するようにと迫られた。 この事件については、E・ラブイスさんの著した伝記には、一切、述べられていない。しかし、バーバラ=ゴールドスミスの書いた『マリー・キュリー〜〜フラスコの中の闇と光』には、詳しく書かれている。 キュリー夫人は、ノーベル賞の委員会に対して、科学の業績と私生活とを切り離して考えるべきだと反論し、堂々と受賞している。当然だ! それにしても、キュリー夫人は、結局、生涯に二回、ノーベル賞を受賞しているが、ノーベル賞が始まってから女性で受賞したのは、一番目と二番目はキュリー夫人で、三番目は、キュリー夫人の娘イレーヌだというから、この一家はすごい。 二、ラジウムなどの放射性物質に対する熱狂ぶり。 ラジウムなどの放射性物質が、美容と健康に良いと宣伝されて、それで儲ける人たちもいた。当時の熱狂振りは、武田徹著『「核」論』でも取り上げられている。武田徹の著書では、日本で1957年頃にあった、ウランへの熱狂について述べるくだりで、実はこういう傾向は、過去においてUSAでもあったということで、具体例が紹介されている。 『「核」論 鉄腕アトムと原発事故のあいだ』 武田 徹著 http://www.bk1.jp/product/02251569 現代では、放射能の危険性は周知のこととなっている。しかし、かつての熱狂の反動で、今は恐怖がおおげさに煽られている……、と言えるだろうか。いや、言えない。 キュリー夫人も、夫ピエールも、娘イレーヌも、平和主義者で、原子力は平和利用に限るべきと考えていた。軍事利用には反対だった。イレーヌの夫フレデリック=ジョリオは、第二次世界大戦中はレジスタンスの闘士として活躍したが、戦後、フランス国家に対し、核兵器開発への研究協力を拒んで、職を解かれたことがある。しかし、原子力発電には大いに賛成している。フランスは火力発電も水力発電もあまり出来ないので、原子力に希望をつないでいた。 しかし、現代では、原子力発電も、事故の恐ろしさ、放射性廃棄物の危険さが取り上げられ、反対運動が盛んである。キュリー夫人ならばどう思うだろうか。イレーヌならば、どう思うだろうか。 イレーヌは1956年に59歳で亡くなった。イレーヌも、マリーも、ピエールも、放射能でからだを痛めつけられて亡くなった。ピエールは馬車に轢かれて亡くなったが、内部から既に、骨が蝕まれていて、足元が覚束なくなっていた、という。 黒い傘を開いて外に出ると、たちまち身体が冷えた。彼は新しい論文の校正をするために『コント・ランデュ』誌の編集室に向かった。街は雨にぬれ、ポンヌフ橋とドーフィーヌ通りが交わる角には乗り物や人がひしめいていた。荷馬車、自家用馬車、辻馬車、乗合馬車、馬に乗った人、歩行者――そのすべてが、パリでもっとも往来の激しい交差点でごった返していた。 三、心霊現象に興味を持つ科学者たち。 日記を読むと、マリーがしばしばまだ生きているかのようにピエールに話しかけていることに驚く。だが、キュリー夫妻、ことにピエールが心霊主義の支持者だったことを考えれば、それも納得できる。心霊主義とは「冥界へ行った」人たちと交信することが可能だと信じる立場のことだ。高名な化学者ウイリアム・クルックスは、当代きっての科学者を何人か集め、霊媒などの交霊術者たちを招いて実験を行った。そのころ多くの科学者たちが目に見えない世界の探求を行っていたが、心霊現象は科学的に説明できるという確信がその前提にあった。 あのシャーロック=ホームズのシリーズの作者コナン=ドイルが、交霊会など心霊現象に興味を持っていたことは知っていたが、キュリー夫妻や夫妻の同僚たちが、まじめに交霊会に参加していたとは、知らなかった。驚きである。だが、 原子物理学の時代が幕を開けたばかりで、電気や電波、磁気、X線、ベクレル線、ラジウムとポロニウムが発する強力な放射線などが次々と発見されていた当時は、心霊現象を科学的なものととらえるのもとっぴな考えではなかった。 という一文に、なるほど、さもあらん、と思う。 フロイトやユングもまた、同時代人だった。彼らをオカルトだとか言ってけなす人たちがいるけれど、そういう人たちは、当時のノーベル賞級の物理学者や化学者たちのこの態度を見たら、何と言うだろうか。 そして、ラジウムやウランなどへの人々の熱狂は、欲に駆られたもので、心霊主義への傾倒は、科学に身を捧げた人々の、精神的なものを尊ぶ気持ちからのものだ、などと区別できるか……できないんじゃない? と、思う。 キュリー夫人が三十代半ばで夫と死別したことは、生涯最大の悲劇だった。悲しければ悲しいほど、研究に没頭した。そのために娘たちは寂しい少女時代をすごした。姉のイレーヌは、科学の才能があり、母親と研究を共にすることができたので、まだましだったが、妹のエーブは、音楽やファッションなど、芸術的センスに優れていたので、もっとかわいそうだった。キュリー夫人は、エーブのためにピアノを買ってくれたが、音楽にあまり興味が無かったようだし、ファッションには更に興味がなく、娘のおしゃれを批判した。 しかし、キュリー夫人は娘たちへの愛情がなかったわけでも薄かったわけでもなく、注意深く健康に育て上げた。その点では非常に成功した。 キュリー一家全体として、科学に身を捧げ、そのために犠牲を払った人々、というふうにも思える。 やっぱり、「ホジュン」を思い出してしまう。 人並み優れた才能と努力で、男性優位の社会の差別を跳ね返していくキュリー夫人の話は、「大長今」みたいだと思う。ドラマのチャングムはミンジョンホが流刑になって長い間孤独を味わった。それでも、娘が生まれて、幸福に暮らしているところで終わっている。現実のほうは、ドラマのような「幸福な結末」には、ならない。とても悲劇的だ。しかしキュリー夫人は不幸だったのかというと、トータルとしては、本人も認めていたそうだが、なかなか、おもしろい人生を送ったと言えるようだ。 *参照 キュリー夫妻の業績と生涯〜知られざるキュリー夫人の真実〜 http://www.jfcr.or.jp/Ra100/innervision/koizumi.html |
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てるてるさん、おひさしぶりです。 |
チボクの針 2007/11/21 20:53 |
チボクの針さん、こんばんは。自分の研究が引き継がれると信じて逝ったキュリー夫人、ほんとうに幸せだったでしょうね。今、「クローズアップ現代」で、猿橋勝子さんの話を聞きましたが、猿橋さんも、自分の志を受け継いでくれる人たちに賞を贈ったんですね。まるでチョン最高尚宮みたい! USAの科学者との対決では、猿橋さんがチャングムに、相手がチョンユンスに見えましたよ。でも、相手の科学者も、偉い人だったんですね。水爆実験の被害の大きさを正確に測定し、ついにUSAが大気圏内での実験を停止するきっかけとなったという、偉大さ。すごいです! |
terutell 2007/11/22 20:00 |
あ、前の文章、終わりごろがちょっと変かな。水爆実験の被害の大きさを正確に測定したのは、猿橋勝子さんです。最初は女性に分析なんかさせられないと言っていた男性科学者たちが、USAの科学者との対決では、逆に彼女を励ますようになったという話も、いいような悪いようなやっぱりいい話だな…… |
terutell 2007/11/22 20:02 |
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