『指輪物語』と『フランクレポート』
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作成日時 : 2007/01/04 17:31
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最近、『指輪物語』と『フランクレポート』の類似性に興味を持っている。
というより、これほどその本質が似ていながら、人々からの注目のされかたが異なることに、関心を抱いている。
J.R.R.トールキンの『指輪物語』は、1955年にUKで出版され、その後、アニメーション化され、更に、2001年〜2003年に三部作として映画化され、大ヒットして、ファンサイトも作られている。
*参照
藤木ゆりこの「指輪物語」ファンページ
http://home.att.ne.jp/yellow/hanaasobi/yubiwa/yubiwa.top.html
私が『指輪物語』の本質だと思うものは、最も力のある一つの指輪、それを手にした人は皆、その魔力に魅入られて手放したくなくなる指輪を、悪を倒すためにも善を行うためにも使わずに、火の山に捨てて壊してしまう、という点である。
ちょっと似ているなと思うのは、1954年に公開された日本の映画「ゴジラ」である。ラストシーンで、ゴジラを倒す兵器の発明者芹沢博士が、これの威力が知れ渡ると世界中で恐ろしい戦争に使われることがわかりきっているから、製造法を書いた書類を全部焼却したのみならず、自ら、ゴジラとともに、海底で、自身の発明した兵器によって死ぬ。
『指輪物語』では、苦難に苦難を重ねてやっと火の山にたどりついたそのときになって、フロドは指輪を捨てることができず、自らの指に嵌めてしまう。だが、その指輪を追ってきたスメアゴルが彼に飛びかかり、指輪の嵌まった指を噛み切って奪い取り、満足しながら火の中に落ちていく。スメアゴルはまるで、芹沢博士みたいだ。その意志は正反対だけど、行為はそっくりだ。フロドは、意志は芹沢博士と同じだったのだが、行為が、正反対になってしまった。
『フランクレポート』は、1945年6月11日、ジェームズ=フランク以下7人の科学者によって作成され、USAの陸軍長官に提出された。
そこには、以下のような事柄が書かれていた。
この見解からすると、今現在秘密に進められている核兵器を、初めて世界に明らかにする方法が非常な、ほとんど運命的といえるほどの重要性を帯びるのである。
可能な一つの方法は―核を秘密兵器として開発し、今回の戦争を終わらせる主要な手段として見なしている人々には、特に説得力をもつ方法だろうが―日本で適切に選択した目標に対して警告なしに使用することである。その場合、最初に使える原爆が、―それは比較的効率が悪くまた小型だろうが―、日本から抵抗への意志や能力を打ち砕くのに十分かというとこれは疑問である。特に通常空爆で時間をかけてほとんど廃墟と化した、東京、名古屋、大阪あるいは神戸といった主要都市に爆撃した場合にはそうだ。重要な戦術的結果を招来するであろうことは、恐らく、いや確実に、間違いない。しかしながら、云うまでもなく、対日戦争で最もはじめに稼働できる原子爆弾を使用する問題は、単に軍事当局によってのみ考量するのではなく、この国の最高レベルの政治的リーダーたちによっても慎重に考量されるべきだと考える。もし全面的核戦争防止協定が、なににも替えがたい最高の目的だと、われわれが見なすならば、またそれは達成可能だと信じているならば、原爆をこのような形で世界に登場させると、いとも容易に条約の締結成功の機会を打ち壊すことになる。ロシア、また同じ同盟国や中立国ですら、われわれの方法論と意図に対して不信感を募らせ、深い衝撃を与えることになるだろう。何千倍も破壊的でロケット爆弾のように無差別的な爆弾を秘密裏に準備する能力を持ち、かつ突然その兵器を発射するような国が、自分だけしか持たないその当の兵器を国際条約で廃止しようとの主張が信頼されるかというと、その主張を世界に納得させることは難しいであろう。
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/flanc_report.htm
この観点から,現在この国で秘かに開発された原子兵器が世界に最初に明らかにされる方法は, おそらく決定的に重要だと思われる.
可能な1つの方法は-- 特に,それは,主に現在の戦争を勝利するために秘密兵器として核爆弾が開発されたと考える人々へ受け入れやすい方法だが-- 日本の適切に選択された目標の上に無警告でそれを使用することである.特に,東京,名古屋,大阪,および神戸のような大都市が通常の空爆というより遅い攻撃によって既に大規模に焦土となっているという事実を見れば,最初の利用可能な比較的低い効率と小型の爆弾が日本の抵抗の意志あるいは能力を打ち破るに十分かどうか疑わしい.ある確かなまた重要な戦術上の成果は疑いなく達成することができるだろうが,我々は,それにもかかわらず,日本との戦争における利用可能な原子爆弾の最初の使用の問題は,軍当局だけではなく,この国の最高位の政治指導部によっても非常に慎重に考えられるべきであると考える.もし我々が,核戦争の全面的な予防の国際協定を主要な目的と考え,それを達成することが可能であると信じるなら,このような形で世界へ原子兵器を導入することは,すべての成功の可能性を容易にだめにするであろう.ロシアは,そして我々のやり方と意図についての少しの疑惑も容認しない連合軍や中立諸国は,深刻な衝撃を受けるだろう.ロケット弾と同様に無差別でしかもそれより1,000倍も強力な兵器を,秘かに開発し突然発射する能力のある国が,国際協定によってそのような兵器を撤廃させたいとう希望を宣言しても,それを世界に納得させるのは非常に難しいであろう.我々は,多量の毒ガスを蓄積しているが,それらを使用しない.そして,最近の世論調査では仮にそれが極東の戦争の勝利を速めるとしても,この国の世論はその使用に賛成しないことを示した.毒ガス戦が,爆弾と弾丸の戦争より決して「人道的」などということはあり得ないが,集団心理のある不合理な要素が毒ガス戦を爆薬によって吹き飛ばすことより不快にさせることは確かである.それにもかかわらず,もし原子爆薬類の効果に関して正しい知識が与えられるならば,アメリカの世論が一般市民の生命を大規模に奪うそのような無差別な手段を我々の国が最初に実行することを支持するかどうかは全く不確かである.
したがって,核戦争防止での国際協定を期待しているという「楽観的な」観点からの,日本に対する原子爆弾の突然の使用によって達成される軍事的利点やアメリカ人の生命が救われるという利点よりも,結果として起こる,他国を覆い尽くすであろう信用の失墜と恐怖と反発の方が重大かも知れず,また恐らく自国の世論さえ二分するだろう.この観点から,新しい兵器のデモンストレーションは,砂漠か無人島で,すべての連合国の代表の目の前で行うのが最善であろう.アメリカが世界に向かって次のように言うことができるなら,国際協定を達成するための最も良く受け入れられる社会的雰囲気を達成することができるだろう.「あなた方は,私達がどんな武器を持っているかを,そしてそれを使わなかったことを知るであろう.我々は,将来,その使用を放棄し,他の諸国と協力してこの原子兵器の使用についての適切な監視体制をつくり上げる用意がある.」
http://pegasus.phys.saga-u.ac.jp/Education/docs/frankreportJ.html
原爆は、ここ2−3年以上にわたって、この国の排他的専有物である「秘密兵器」として維持しうるものではない。その建設に基礎を置くべき科学的事実は他国の科学者にもよく知られている。もし核爆発物に関する効果的国際的統御の仕組みが構築されないならば、世界に向かってアメリカが核兵器を所有していることが明らかになるやいなや、核装備競争が間違いなく生起するであろう。10年以内に他の諸国も5平方マイル以上の都市地域を破壊しうる、重量1トン以下の核爆弾を保有するに至るかも知れない。そのような核装備競争が逢着する戦争にあっては、合衆国のような比較的限られたメトロポリタン地域に産業と人口が集中している国は、広い領土に産業と人口が分散している国に較べて、不利となるであろう。
われわれは、これらの考察を通じて日本に対する無警告の、また初期の段階における原爆の使用は全く勧奨できないものと信ずる。もし合衆国が人類に対して無差別の破壊をもたらすこの新しい手段を最初に放つならば、合衆国は世界中の人々からの支持を失うことになり、核装備競争を促進し、将来に置いてそのような兵器の統御に関する国際的合意を形成する可能性にとって偏見を残す結果となるであろう。
そのような合意を実効的に形成するにあたって、より望ましい状態は、適切に選択した無人の地域でデモンストレーションすることによって、最初に世の中に公開することである。
もしこのような効果的な国際核兵器統御協定成立の見込みが、現在薄いものならば、日本に対して核兵器を使用することだけでなく、早い段階でのデモンストレーションですら、アメリカにとっては不利益なものとなろう。その場合、デモンストレーションを延期することが、できるだけ核装備競争の開始を遅らせることになる。こうして時間にゆとりが生ずる期間に、もしこの国の原子力エネルギーに関する開発がさらに進めば、それは莫大な支援となり、デモストレーションの延期は、今次戦争期間中に確立した優位性を補強し、核装備競争におけるこの国の立場を強化することになり、ひいては後にいずれかの日の国際合意の企てにとっても、それを強化することにもなる。
その一方で、仮にもし、デモンストレーションを行わず、原子工学における開発に適切な世論の支持が集まらないものとすれば、デモンストレーションを延期することは、決して勧奨できるものとは思量されない。と言うのは十分な情報が流出し、他国を核装備競争に駆り立てるだろうからだ。その競争に置いてはアメリカはより不利な立場に立たされるに違いない。同時に秘密裏に開発を進めていることを他国が確認すれば、不信感を増大させ、国際的合意を形成するに当たりそれを事実上困難にするからである。
もし合衆国政府が、核兵器のデモンストレーションにより好意的な決断を行えば、それはこの戦争で日本に対して核兵器を使用すべきか否かを決定する前に、この国や他国の世論を十分取り入れる可能性を持つことになる。このようすれば、他国もまた、この運命的な決断に対する共同責任を負うことにもなる。
要約しよう。われわれは、今次戦争に置いて核兵器を使用することは、軍事的便宜主義からではなく長期的国家政策の問題として考えるべきだと主張するものである。そしてこの国家政策とは、核戦争を取り除く効果的な国際統御を許す合意形成の方向に、第一義的に向かうべきだと主張するものでもある。
この国にとってそのような統御が決定的に重要だと云うことは、われわれが知る限り、この国を守る唯一の代替案は主要都市や基幹産業の分散しかないという事実から見て、明白である。
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/flanc_report.htm
私は、この『フランンク=レポート』が作成され、提出され、しかし、USAの政府から無視された経緯を、誰かが、"Lord of the Ring"に優るとも劣らない映画にして、世界中から注目を浴びて、どうして、ときの政府から無視されたのか、研究されたらいいのに、と思う。
今更、歴史を逆戻りさせることはできないし、事実は物語とは別なんだから、そんなこと、誰も、おもしろがらないし、役に立たないし、せいぜい、残念だと思ったり、人間なんてそんなものだと冷笑したり、やはり人類は滅びるまで戦争をやめることはできない、と思ったりするだけなのかもしれない。
たとえば、第二次世界大戦の前、1940年に、日本の国会議員の斉藤隆夫が、衆議院でこんなことを言っている。
私はこれより一歩を進めまして少し私の議論を交えつつ政府の所信を聴いてみたい。政府においてはこういうことを言われるに相違ない。また歴代の政府も言うている。何であるか。このたびの戦争はこれまでの戦争と全く性質が違うのである。このたびの戦争に当っては、政府はあくまでも所謂小乗的見地を離れて、大乗的の見地に立って、大所高所よりこの東亜の形勢を達観している。そうして何ごとも道義的基礎の上に立って国際正義を楯とし、所謂は紘一宇の精神をもって東洋永遠の平和、ひいて世界の平和を確立するがために戦っているのである故に、眼前の利益などは少しも顧みるところではない。これが即ち聖戦である。 神聖なるところの戦いであるという所以である。
かような考えを持つておらるるか分らない。現に近衛声明の中には確かにこの意味が現われおるのであります。その言はまことに壮大である。その理想は高遠であります。しかしながらかくのごとき高遠なる理想が、過去現在及び将来国家競争の実際と一致するものであるか否やということについては、退いて考えねばならぬのであります。(拍手)いやしくも国家の運命を担うて立つところの実際政治家たる者は、ただ徒に理想に囚わるることなく、国家競争の現実に即して国策を立つるにあらざれば、国家の将来を誤ることがあるのであります。(拍手)
現実に即せざるところの国策は真の国策にあらずして、一種の空想であります、まず第一に東洋永遠の平和、世界永遠の平和、これは望ましきことではありまするが、実際これが実現するものであるか否やということについては、お互いに考えねばならぬことである。古来いずれの時代におきましても平和論や平和運動の止むことはない。宗教家は申すに及ばず、各国の政治家らも口を開けば世界の平和を唱える。また平和論の前には何人といえども真正面からして反対は出来ないのであります。しかしながら世界の平和などが実際得られるものであるか、これはなかなか難しいことであります。
私どもは断じて得られないと思っている。十年や二十年の平和は得られるかも知れませぬが、五十年百年の平和すら得られない。歴史家の記述するところによりますると、過去三十五世紀、三千四百幾十年の間において、世界平和の時代はわずかに二百幾十年、残り三千二百幾十年は戦争の時代であると言うている。かくのごとく過去の歴史は戦争をもって覆われている。将来の歴甕は平和をもって満たさるべしと何人が断言することが出来るか。(拍手)
のみならずご承知の通りに近世文明科学の発達によりまして、空間的に世界の縮小したること実に驚くべきものである。これを千年前の世界に比較するまでもなく、百年前の世界に比較するまでもなく、五十年前の世界に比較しましても実に別世界の懸か起こらざるを得ないのである。この縮小せられたる世界において、数多の民族、数多の国家か対立している。そのうえ人口は増加する。生存競争はいよいよ激しくなって来る。民族と民族との間、国家と国家との間に競争が起こらざるを得ない。しかして国家間の争いの最後のものが戦争でありまする以上は、この世界において国家が対立しておりまする以上は、戦争の絶ゆる時はない。平和論や平和運動がいつしか雲散霧消するのはこれはやむを得ない次第であります。
もしこれを疑われるのでありますならば、最近五十年間における東洋の歴史を見ましょう。先ほど申し上げました通りに、我国はかつて支那と戦った。その戦いにおいても東洋永遠の平和が唱えられたのである。次にロシアと戦った。その時にも東洋永遠の平和が唱えられたのである。また平和を目的として戦後の条約も締結せられたのてありまするが、平和が得られましたか。得られないではないか、平和が得られないからして今回の日支事変も起こって来たのである。
また眼を転じてヨーロッパの近状を見ましょう。ご承知の通りに二十幾年前にヨーロッパはあの通りの大戦争をやった。五か年の問国を挙げて戦った戦争の結果はどうなったか。敗けた国はいうに及ばず、勝った国といえども徹頭徹尾得失相償わない。その苦き経験に顧みて、戦争などはやるものでない。およそこの世の中において戦争ほど馬鹿らしきものはない。それ故に未来永久、この地球上からして戦争を絶滅する。その目的、その理想をもって国際連盟を作った。我か日本も五大強国のーつとしてこれに調印しているのであります。平和は得られましたか。国際連盟の殿堂はどうなっているか。民族の発展慾、国家の発展慾は、紙上の条約などでもって抑制することが出来るものでない。十年経ち、二十年経つ間においてまたもや戦争熱か勃興して来る。ヨーロッパの現状は活きたる教訓 を我々の前に示しているのであります。
ある者は言うている、このたびの戦争は「ベルサイユ」条約が因である、「ベルサイユ」条約においてドイツに向って苛酷なるところの条件を課したから、その反動として今回の戦争が起こったのであるとこう言うている。一応の理窟であるに相違ない。しかしなから[ベルサイユ」条約がなかったならば戦争は起こらなかったと誰が断苫することか出来るか。第一ヨーロッパ戦争の前におきましては「ベルサイユ」条約はなかったのてありますけれども、戦争は起こったのである。
即ち人間の慾望には限りがない、民族の慾望にも限りがない。国家の慾望にも限りがない。屈したるものは伸びんとする。伸びたるものはさらに伸びんとする。ここに国家競争が激化するのであります。なおこれを疑う者があるならば、さらに遡って過去数千年の歴史を見ましょう。世界の歴史は全く戦争の歴史である。現在世界の歴史から、(発言する者多し)戦争を取り除いたならば、残る何物があるか。そうしてーたび戦争が起こりましたならば、もはや問題は正邪曲直の争いではない。是非善悪の争いではない。徹頭徹尾力の争いであります。強弱の争いである。強者が弱者を征服する、これが戦争である。正義が不正義を贋懲する、これが戦争という意味でない。先ほど申しました第一次ヨーロッパ戦争に当りましても、ずいぶん正義争いが起こったのであります。ドイツを中心とするところの同盟側、イギリスを中心とするところの連合側、いずれも正義は我に在りど叫んだのでありますが、戦争の結果はどうなったか。正義が勝って不正義が敗けたのでありますか。そうではないのでありましょう。正義や不正義はどこかへ飛んで行って、つまり同盟側の力が尽き果てたからして投げ出したに過ぎないのであります。今回の戦争に当りましても相変らず正義論を闘わしておりますが、この正義論の価値は知るべきのみであります。つまり力の伴わざるところの正義は弾丸なき大砲と同じことである。(拍手)羊の正義論は狼の前には三文の値打もない。ヨーロッパの現状は幾多の実例を我々の前に示しているのであります。
かくのごとき事態でありますから、国家競争は道理の競争ではない。正邪曲直の競争でもない。徹頭徹尾力の競争である。(拍手)世にそうでないと言う者があるならばそれは偽りであります、偽善であります。我々は偽善を排斥する。あくまで偽善を排斥してもって国家競争の真髄を掴まねばならぬ。国家競争の真髄は何であるか。日く生存競争である。優勝劣敗である。適者生存である。適者即ち強者の生存であります。強者が興って弱者が亡びる。過去数千年の歴史はそれである。未来永遠の歴史もまたそれでなくてはならないのであります。(拍手)
この歴史上の事実を基礎として、我々が国家競争に向うに当りまして、徹頭徹尾自国本位であらねばならぬ。自国の力を養成し、自国の力を強化する、これより他に国家の向うべき途はないのであります。
http://homepage2.nifty.com/Bokujin/shiryou1/hangun.html
斉藤隆夫はこの演説で当時の中国政府に対する日本政府の政策を批判したのであり、いつまで中国大陸での戦争を続けて、国民の生命、財産を犠牲にするのか、さっさとやめんかい、というのが本旨だ。
『フランクレポート』も何も、平和運動や正義論から書かれたわけではない。USAの国益と安全を第一義において書かれたものだ。
ということは、もし、斉藤隆夫みたいな人がUSAの市民のなかにいて、『フランクレポート』を、当時、読んでいたなら、その趣旨に賛成したのではないかなどと、想像してしまう。
でも、『フランクレポート』は、一般の市民には公表されなかった。
『フランクレポート』を作成した人々は、『指輪物語』のガンダルフみたいな役割を果たす人々だったのかもしれない。でも、ホビットの役割を果たす人々が、いなかったということかもしれない。
*追加参照
原爆日記:旧理研研究者が残す 終戦直前開発断念の記録
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20070105k0000e040072000c.html
戦時中に旧理化学研究所(東京都文京区、現在の理研)で原爆を研究していた物理学者の日記が見つかり、近く発刊の「仁科芳雄往復書簡集・第3巻」(みすず書房)に掲載される。原爆製造に必要なウラン235の濃縮に失敗し、開発を断念する様子を克明に記した貴重な記録。研究に関する記録は終戦直後「原爆を造っていたことがわかれば死刑になる」とのうわさからすべて焼却されたとされており、関係者からは「よく残っていた」と驚きの声が上がっている。
仁科芳雄博士について
http://www.nishina-mf.or.jp/nishina-bio.htm
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