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zoom RSS 臓器移植法に生体移植の規定を追加するかどうかに関して

<<   作成日時 : 2005/11/18 23:03   >>

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○鈴木清子(生体肝移植ドナー体験者の会)さんの御意見(てるてるにより編集済み)

当事者として移植が必要な家族を目の前にうろたえた経験から言うと、必ず立法してほしいという意味ではありませんが、日本移植学会の倫理指針だけではなく、もう少し広く我々にとってインパクトがあるものが示されていると良いのではと思います。それをガイドラインというのか、その法的な重みについてはわかりませんが、最低限のものを国として明文化していただきたい。そうでないと、さまざまなことに照らし合わせて、家族内の弱い立場の者が、臓器提供の圧力を感じてしまう。実際に圧力があるという意味ではなくとも。日本移植学会の倫理指針ではないものの必要性を切実に感じるところであります。もっと明確な形で一つの基準があった方が、家族が本当に問題に直面したときに、何を基準に判断するかという根拠の一つになることは、確かです。

いつもいろいろな議論の中で、生体の移植に関して、ほとんど取り上げられないのが、再移植、再々移植の問題です。先ほど松田先生がおっしゃった生体肺移植の場合には、1人の方に提供するに当たって、当然どうしても同時に複数名ドナーが必要だというという例ですが、そうではなく、1人の患者さんのために再移植、再々移植が行われるというケースが、肝臓では徐々に疾患の拡大に伴って、増えつつあるのが現状です。

私自身も実は再移植のドナーですが、生体移植が進むことによって、初回移植のドナーだけではなく、再移植、あるいは再々移植を考えるドナーも出てきているという事実が、きちんと認識されていないように感じます。

今移植学会の、倫理指針が出ておりますが、再移植、再々移植といった厳しい条件が重なったケースにおけるドナーが自己決定をするときにでも、基準が同じという状態で、1回目の移植であろうが、2回目の移植であろうが、同じ判断基準を用いることに私は疑問を感じております。


私は基本的に「規制」の為の立法をと唱えているのではありません。どうしてもそう受け取られ安いのかもしれませんが、法律は人を守るためにあるものと理解しています。

ドナーとして臓器を提供される方だけでなく、この医療に直面し、悩み考えざるを得ない立場の方や、この医療を行う方々、そして何よりこの医療を受ける立場の方々が胸を張って新しい命を受け入れることが出来るためにも、現状の日本移植学会の倫理指針だけでない「一定の基準」が必要だと考えているだけです。医療側に「縛りを掛けたり」「罰則を与えたり」「違反をとがめる」ために立法を考えている訳ではまったく無いのです。

医療は人を救うためにあってこそ価値があるはずです。生体での移植が持っている「危うい」側面を「当事者の自己決定」だけにゆだねることの怖さを、様々な方々のお話の中から感じていますので、立法化の提案もこの医療が医療であり続けるために必要な「支え」とすることが理想です。

臓器提供者も結局のところ、目の前で困っている患者を見ながら意思決定をするわけです。そこに完全なる自由意思とか、だれにも左右されない完全な自己決定があるということは、これは幻想です。

医療に絶対はありませんし、そもそも人間の思考や意思にも「絶対的なもの」などない・・・というのが私の発想の原点です。

移植はどうしても「無理を押し切る」医療なのです。はじめから最後まで「無理」と「不自然」がついて回ることは確かです。しかし、客観的に「無理」を抱える移植医療であったとしても、だから存在そのものまで否定されるべきとは私には思えません。移植にはそう思わせるだけの「力」がやはりあるのです。

その力が常に発揮されるとは限りませんし、それによって提供行為をした人の人生まで壊すこともあります。だからこそ「提供者」を守ることは移植医療の「核」でなければいけないと思えます。今のようにドナーがなかば忘れられ、放置された状態を出来るだけ早く改善し、提供者の支えをたくさん作ってはじめて、移植は医療の仲間入りをすることが出来るように思います。

移植が背負う「不自然さ」や「ひっかかり」を突き詰めていったとしても、「移植否定」だけには繋がらない。経験者としてそれだけは、はっきりと言えます。

脳死判定が殺人と同じだと言う方々もおられるようですが、そういう方々は人の「死」が 一点で表されると誤解しておられるように見えます。意識が無くなった時点でも死、心臓がとまった時点でも死、視界から消えた時点でもある意味「死」です。反対に焼かれてお骨になってもその人が「生きている」と感じる瞬間は山ほどあります。

毎日亡くなった娘を感じながら生きている私の場合、娘は「死んだ」のでしょうか?

それとも「生きている」のでしょうか?

それを何故、人に断言されなければいけないのでしょうか?


てるてるより

《移植はどうしても「無理を押し切る」医療なのです。はじめから最後まで「無理」と「不自然」がついて回ることは確かです。
しかし、客観的に「無理」を抱える移植医療であったとしても、だから存在そのものまで否定されるべきとは私には思えません。
移植にはそう思わせるだけの「力」がやはりあるのです。》


上記の部分は、一番むずかしく、移植医療を受け容れるか反対するかで分かれる部分だと思います。

私は、脳死を死とすることに無理があると思います。少なくとも、誰もが一律に脳死を死とすることには無理がある。

でも、たとえば、法律上、そうしないと、不都合がある、脳死を死とするときもしないときもあるというのではさまざまな問題が生じる、という、現職の弁護士さんの実務的な意見を読んだときには、そのとおりだな、と思います。
法律の実務からは、脳死を死としたりしなかったりすることが、現場で無理を生じさせる、ととらえる。

一方で、脳死の患者さんを看取った人からは、脳死を死とするのは絶対に無理がある、という意見と、脳死を死とするのは自然だ、という意見とが出ている。
自然だと思う人だけが臓器提供したらいいじゃないか、とわたしなんかは思う。

でも、脳死臓器移植は殺人だ、脳死を死だとうけとめる人達はまちがった情報に基づいているのだ、という意見の人からは、臓器移植という医療は無理なことどころか無法なことをしている、ということになる。

それをきくと、現に臓器移植で助かっている人がいるじゃないか、そこまで決め付けるのは無理だろう、と私は思います。

立場によって、何が無理なのか、違ってくると思います。


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