てるてる日記

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zoom RSS 臓器移植法改正案関連記事(2004/10)その2

<<   作成日時 : 2005/01/18 21:13   >>

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臓器移植法改正案についての意見交換blogより移動

2004/10/3
「脳死・移植」についての Q. and A. (弁護士編)

2004/10/03

*参照
「ホロヨイ憂国至情の板」
http://6626.teacup.com/takitaro/bbs

Question: てるてる
Answer: 友北


Q1.脳死患者の「死」の定義について

こどもの場合、脳死と診断された後、おとなでは考えられないほど長期間、心停止までその状態が持続したり、背が伸びたりします。
最近は、おとなでも、1ヶ月ぐらい脳死状態が持続することがあります。
私は、脳死を死と生の中間にしといたらいいじゃないか、と思います。
実際に、韓国では、脳死を生と死の中間として、家族同意だけでも臓器提供できるようにしていますが、これについて、どう思われるでしょうか?


A1.脳死患者の「死」の定義について

「死」は、法的なものでもあります。
「生」が、法的なものでもあるのと同じく。
ちなみに、刑法上の「生」は児頭が膣口からすれば「生」であり、頭に何か刺すようなことで死なせば、「殺人罪」になります。
昔は全部露出説とか、それ以前は最初の呼吸説とかいうものだったのですが、まあ色々な事件があったのでしょう。

「移植するかどうか」で「脳死を死とするかどうか」を定めるなど、法律関係者にとっては、まったく信じがたいものです。

1−死は一律でなければ困る
2−恣意的な操作で変更可能であっては困る

1の方ですが、法律関係では、まさにこれを当然と考えてますよね。
時期が変わったりすると、相続問題、税金問題(あー、1週間早く死んでいてくれれば、あと一週間もっていてくれれば、などということは実際あるのです。)などで、不公平というかトラブルが生じやすく、弱るのです。
例えばですね、交通事故で父母と子がともに死ぬ、などど言うことがありますよね。
3者が同時に死ねば、又は同時死亡の推定を受ける状態ならば、父の損害賠償請求権と財産、子の賠償請求権の2分の1は、父方に行きます。
母のと子の2分の1は母方にいきます。ですが、例えば母だけは心臓死ではなく、「脳死」だとして、その脳死を法的には「死」でないとしたとき、子の賠償請求権のすべてと、夫の3分の2(父方の祖父又は祖母がいるとき)又は4分の3(夫の兄弟のとき)が、いったん母に帰属するので、母方に行き、父方は少なくなります。
また、子のみが前記の「死ではない脳死」として、後に死亡したときは、いったんすべてが子どものものとなり、祖父母がいればいいのですが、いなければ国庫に帰属します。

私は脳死については、診断基準を厳格にして、すべて「死」とすべきものと考えています。
「死の時期」は、脳死判定を始めると決定した時にすべきものと思います。
私の言うのは、時間のかかる判定において「脳死」と判断したとき、「死亡時刻」は、判定を始めると決めた時、にすべきだと思うということです。
医師は「ただいま判定により脳死として死亡されました」ではなく、「やはり脳死になっていて、死亡されていました。」と医師は言うことになります。

2の方は、もはや混乱してもやむなしということなのだろう、と。
医学の進歩で、良くも悪くもルーズになってきてしまっていて、もはややむをえないのかもと思います。
まあ、心臓死も、「臨終です」と医師が診断したときが死亡時期というのが実態ですよね。
んで、止まっていた心臓も動かして家族が来るまでは「生かしておく」とある事態をみたとき、ある程度は恣意的なものが入ると。
とある事故死をした幼児の場合、臨終です、と言われた後に、親がまだ何とかなるのではっ、といって胸を叩き、心臓がなんとまた動き始め、5分間もったとのこと。立ち会った医師は恥ずかしそうにしていたが、それは、医学的・生物学的には互いに受容すべきことでして。


Q2.
現行法では、臓器移植のための法的脳死判定は、本人の事前の書面による承諾と、いざそのときになってからの家族の拒否がないことが必要になっています。
でも、法的脳死判定の前の、臨床的脳死診断には、本人の同意も家族の同意も必要ありません。
臨床的に脳死と診断されても死亡宣告はされません。
もし、移植のための「法的脳死判定」というものをなくしてしまって、臨床的脳死診断だけで死亡宣告をする、それも1回目に遡ってそのときを死亡時刻とする、というとき、脳死診断をする前に、これをすると、患者の死亡を宣告することになるかもしれないけどいいですか、と患者の家族に断わってから、する必要があると思います。

A2.
もちろんです。「脳死は死」なのですから。移植と関係なく。
そして、そんな説明もする必要がないほどに、その考えを普及させないと。
CTを見せることはかなり広がっていますし、遺族らとしても、諸措置を外して、やがては止まることで納得できやすいと思います。
スパゲッテイー症候群は、意識など少しでも回復する可能性がまったくないんだ、と分りつつされるのも辛いものかと。


Q3.
以前、脳死でなくても、家族のどっちが先に死んだかがわからず、患者の親族から、こっちが先に死んだことにしてくれとか、あっちが先に死んだことにしてくれとか、いう意味のことを言われて困った、という医師の体験談を読んだことがあります。
ですから、死亡時刻と相続の問題は、脳死に限ったことではないので、相続の問題があるから、脳死は一律に死とするべき、とは、ならないと思います。

A3. 
もちろん、だが問題となる範囲を更に拡げる必要もないと。


Q4.
私が相続の問題ときいて考えるのは、たとえば、植物状態の人の財産権や所有権は、家族が代行しているだろう、ならば、脳死を死としなくても、家族が代行すればいいのじゃないか、と思うのです。

A4.
甘いです。それは。
植物人間段階から、というか、老人病院に入院している程度で、色々な法律相談が来るものです。良くあること。
誰かが勝手にしているとか、ね。まして、相続順位の問題ともなれば、と。

すべて脳死は死と認めないのならば、混乱しない。だが、脳死状態を「生」とするのは間違っていようと。



Q5.
脳死を、社会的に死とするように法律で決めることはできるでしょうが、それならば死と認めない人々の立場も認めるという例外規定をくっつけることが必要と思います。
USAとオーストラリアには、州によって、宗教上の理由で脳死を死と認めない人の立場も認める法律があります。


A5.
>脳死を、社会的に死とするように法律で決めることはできるでしょうが、

??、「社会的に死とする」のは社会です、私は法的に「死」とするかを言ってます。脳死の場合「法的に死」と宣言し、「社会的にも死」と言うことを認めていってもらうしかないだろうと。

>死と認めない人々の立場も認めるという例外規定をくっつけることが必要

それは、絶対にすべきことでないです。宗教の違いによって、死亡時期が違っていいはずがない。
ミイラでも、「死んでいない」という宗教的立場もあるんですよ、真実「信じている」のです。


Q6.
USAでは1997年にトルーグによって脳死を死とすることは無理であるとする論文が発表され、当時、臓器移植法制定前の衆議院の公聴会でも紹介されています。
また、アラン=シューモンによって、世界各国の論文から、長期脳死の事例が集められて報告され、脳死を死とするのは科学的に無理という結論を出しています。
彼らは二人とも、臓器移植に賛成しています。


A6.
その立場に立てば、本来、脳死での臓器移植は、一切してはならないものですよね。
ただ、それは「社会的」なことなのでしょうか、医学的・生物学的なものであるべきだと思いますが。
長期間持つ脳死は本当かいな、と思いますが、医学がやたら進歩してしまったので、長期脳死があって、それを「死」としてもおかしくないと思っていますが。

本来、矛盾した話ですよね。
それでもを認めるためには、「自殺する自由、提供する自由」どころか「自分が生前に臓器を提供して死ぬ自由」というものを認めざるを得ないことになるのだろうと思います。

それはそれで論理一貫していると。

筋道としては、
1−その論法でいくか、
2−脳死は「死」ではないから移植は一切ダメ、とするか
3−「脳死」は「死」だから、移植は可。
と言うことになるのでしょう。

だが、それを結局は、曖昧にしつつ進めようというのが、日本の良いところでもあるかもしれない、とも思っています。
私は、3として、すべての脳死と思われる場合には脳死判定をして脳死ならば「死」とし、そして意思能力ある本人の事前了解あるときは臓器移植が可能とすべき、と思っています。



Q7. 臓器移植について
幼いこどもは本人が意思を表示できないから家族の承諾で臓器提供してもいい、という考え方について、どう思われますか?


A7.
○臓器移植について。

・移植するのを原則とするか
・移植しないのを原則とするか
の問題だろう、と思います。実は、その思考背景の違いがあると。

私は、後者です。
人生哲学のそれぞれの違いでしょうけれど、やはり「人の死を前提とする医療」というのは、あくまで例外的であるべきものと思います。
(自分の家族がレシピエントの立場になったら辛いけれど)


移植しないのを原則とするから、臓器移植は例外なので
・ ドナー本人の明確な意思表示が必要
・ ドナー本人は、意思表示能力が必要
・ 交通事故外犯罪にかかわるドナーの場合は不可能
と考えます。

「本人が臓器提供してくれ」と言っているときは家族の了解なぞ得る必要はない、本人が意思を示していないときは家族の了解があっても駄目、と考えています。
それが正しいと思うけれどなぁ、と。今の法律がおかしい、と。 
「ご本人が意思を明確にしているのですから−−」と言うのは大変だろうけれど、それが本人の意思なのですから、その仕事をしてらわないと。


○子どもの場合について。

・ 子どもの場合、脳死どころか心臓死でも、ドナーとして、移植は認めない。
・ 家族らの同意によるものは、本人が成人ドナーでも認めない。
・ 知的障害者ドナーの場合は、カード作成当時、意思表示能力があった場合に限る。
ということになります。

そりゃ、子どもの命が移植で助かるならば何とかその立法化もして欲しい、と親は思いますよ。
また、子が突如なくなったとき、その心臓などがどこかで動いていて欲しい、などとも思うことがありましょう。
ですが、「それはできないこと」と国として明確に姿勢を示して、それを受諾すべきだろうと。
あくまで「人の死亡を前提とする医療」というのは、例外的であるべきと思うので。
(この結果は、子どもは献血さえできないのが当然なのだから、そんな要請があるからとはいえ、不当ではなかろうと)


○自分自身について。

自分自身は皮膚まで含めて、了解とのドナーカードを配偶者の了解を得て所持している者ではあります。
事前に明確に意思表示の場合の
1−痛みが酷く、死亡も人工呼吸をしないとして、間近いときの「尊厳死」は、自分には是非させて欲しく。
2−痛みがなくとも、さらには死亡が近くなくとも、いわゆる「植物人間」となって、回復もまずしないときには、「安楽死」させて欲しく。
思っています。
その時は、回復の見込みがないと判断されるならば(脳死の判定はサッサと、家族の了解などなくとも始めて欲しいのです)、脳死段階は死なのですから、いいでしょう?
さらには、脳死前でも、それなりの回復はありえないと思われたときは、私は始めて欲しいです。
自分は植物状態で生きているのも嫌ですから。

1は、日本でももはや適法に近くなっていますね。多量のモルヒネなど?での行為は困難だけれど、痛み止めのためのモルヒネ名目にて。
仕事上、身寄りのない人の遺言書を作り、最後は3日3晩ホスピスにて付き添いましたが、痛みを止めて、上手になくなっていきました。
自分で「臨終の聖歌」も歌ってミサを受けた後でして、なんとも敬服したものです。
その3週間ぐらい前だったか、本人との会話で献眼の話が出て、本人が登録するというので、死去後、直ちに連絡して献眼しました。



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